Audibleのおすすめに出てきてタイトルがなかなか激しいなぁと興味本位で流し聴き。
バカと無知ー人間、この不都合な生きものー(橘玲)
日本人の日本語力が結構あやしい話、差別と偏見の話、面倒なプライドの話などなるほどこの人はこう考えるのかと興味深かった。
モノをよく考えることの大事さに改めて気づかされる一冊だった。
インターネットやAIの発達で、現代は自宅にいながら大量に情報を手に入れることができる。
見たり聞いたりしたことをそのまま受け取っておくのは思考停止であり、怠惰で恥ずかしいことなのだ。
物事の因果関係や道理、本質を常に自分の頭で考えてモノを言ったり行動したりすることは大事である。
自分の言動について突っ込まれた時、「誰々が何々と言っていたから」というのは理由にならない。
そういうことを平気で言う人に限ってやたら自分を正当化するが、狭い人間関係の中でしか通用しないことに本人は気づいていない。
その視野の狭さと判断力のなさ、思考の浅はかさは到底信用に値しないのである。
実務において、判断に迷った時は実務書を見たり、裁決例や判例を読んだりするが、いつも必ず条文を確認して、どういう論理で解釈したらそういう判断になるのか、自分もそういう判断に落ち着くかということを考えるようにしている。
こういう姿勢を叩きこんでくれたのは学生時代の指導教官だった。
日本語学の演習で持ち回りで万葉集の歌の解説をするのだが、容赦なく「君はなぜそう考えたのか?」と追及され、「◯◯先生(高名な学者)の本にそう書いてありました」などと答えようものなら「その◯◯先生は何を根拠にそういう主張をしているのか調べたのか?」「元にあたってきなさい!」と厳しく言われ次週に再チャレンジする羽目になっていた。
要するに、自分の解釈を聞かれて、その根拠を説明する時に、何か引用をするなら研究者の本の内容ではダメで、あくまで古典から引っ張ってきなさいと。
たとえ実績のある学者先生の本に書いてあることでも、そういう解釈があったから自分もそう解釈したという姿勢はダメであると。元を確認してナンボだと。
学部生だった私にとっては引用に使えるのは万葉集はじめ古典のみという指導はとても厳しく感じるものだったが、税理士業をするようになって、そういう教えを受けたことをありがたく思うようになった。
税務の解釈のみならず、人と話をする時に、当然「???」という部分が出てくる。
そういう時にただシャットダウンしてしまうのではなくて、「なぜこの人はこういうことを言うのか?何がこう言わしめるのか?」と相手のバックグラウンドや今までの言動を総合的に思案してみるとなるほど人間とは奥深い生き物であると学ぶ部分が出てくることもある。
そこから思わぬ方向に人間関係が発展することもあるし、お互いこういう姿勢を持つ者同士であるならば一時的に関係性が悪化しても雨降って地固まり何もなかった時よりもずっと良い関係性を築けたりする。
社会に出る時に「もっと実用的な分野を専攻すればよかった」と何遍思ったかわからないが、二十年の時を経て、無駄な勉強などないと思えて、人生とはどう転ぶかわからないものだとしみじみ思う入学式シーズンであった。
今年は桜がゆっくりだ。